生死のあいだ (鹿島丸と栄江丸、二度の沈没の記録)

木村 功


あれは昭和二十年、二十二歳の八月、太平洋戦争も愈々終焉を迎えんとするとき、私の乗った軍用貨物船鹿島丸(2300トン、杤木商事所属、戦時標準型貨物船2D型)は米軍の爆撃機の投下する数発の爆弾からからがらのがれて朝靄(もや)の中をのろのろと南鮮の釜山港にたどりつく(※)。此の港も機雷がいっぱいで危険だらけの掃海航路を用心深く埠頭に向った。その時、突然船体は激震と共に船橋の羅針盤、操舵輪、伝声管等すべての計器がふっ飛び、両舷側からは泥のまじった海水がどっと吹き上がりやがてデッキに瀧の如く降りそそいだ。


鹿島丸と同型の戦時標準型貨物船2D型

船橋でふっ飛ばされた私は「やられた!」と思いつつタラップを駈け降りると、船室に駈けこみ先づ船員の安否を確かめた。電灯の消えた自室に入り懐中電灯を探す。室内のベッドは抜け落ち壁の棚は一つも残っていなかった。ひと廻りして上甲板に出てみると、二人の若い船員が両腕をだらりと下げたまま茫然と突っ立っている。尋ねると、二人はマストの見張り籠で入港の見張り中ショックを受け縄梯子を伝って降りた途端、両腕に力がはいらなくなったと云う。二人の両腕はなんとめちゃめちゃに骨折していたのだ※。

自室や機関室に居た乗組員達が徐々に泥の海水ですべる上甲板に集って来る。本船は船尾から沈みはじめた。同時に船首は高くもち上がり坂になったデッキを全員船首に向って這い登る。ところがチェックしてみるとエンヂンルームの機関員達が殆んど集まらない。触雷で船底が破れ浸水のため脱出できないのだ。船長以下みんなが心配する。気缶室から猛烈な勢いで蒸気が吹き出していた。港内の水深が浅かったので本船はやがて船首を持ち上げたまま着底した。岸壁から救助艇が走って来て接舷した。

先刻の両腕骨折の甲板員と数人の怪我人を助け乍ら救助艇に乗りうつる。そのとき船橋の下の出口から重油で真っ黒になった一人の男がよろよろと出て来た。よく見ると顔は判らないがその恰好は正しく二等機関士である。後で聞いた話であるが、彼は触雷時当直であったが近くに居た機関員達は逃げ出そうとして気缶に取りつけたタラップに集まり噴き出す熱の蒸気にやられて全滅したが、彼は船底からの浸水に浮きあがり泳いでいるうちにハッチにたどりつき這い出して来た由。正に奇跡の生還であった。

救出された私達は港の近くの海員寮にしばらく逗留の間に終戦を迎えた。八月十五日、ラヂオ放送の天皇の玉音はひどい妨害電波のため聴き取れなかった。私達は港内に故障碇泊中の栄光丸(栄江丸※)を両船全員で何とか修理して帰国することになった。朝鮮半島では日本の敗戦と同時に反日暴動が起こり埠頭には脱出しようとする日本人があふれた。

修理完了の栄光丸はそれ等の人々を乗せて間もなく出港。内地に向う。再び機雷の危険水域を脱出し最早や米機の爆撃の心配の無くなった朝鮮海峡に出る。その日の夕刻には山口県の日本海側漁港小串湾に入る。内地の山々を眺めほっとし乍ら私達は船橋に立ち談笑していた。愈々投錨と云う時、突如として悲劇は起った。

大音響と共に私の体は船橋と共に宙に浮き次の瞬間海中に放り込まれた。生暖かい海水の中を私の体は動転し乍ら沈んでゆく。上の下も分らない状態で渦にもまれ乍ら沈み続け、一向に浮き上ることが出来ない。だんだん息が苦しくなって来た。依然として体は反転、自由がきかず呼吸が苦しいので思わず息をのむが気道は受けつけない。その時ようやく沈降が止まり体が浮きはじめた。

これで何とか助かると思った途端、急にまわりが暗くなり私の頭は固い鉄板に突き当った。とっさに私は本船の船底に突き当ったと気づいた。若し本船が沈没するならもう助からない、私は必死で真横に泳いだ。死に物狂いとはこのことであろう。何度目かの水を飲み込んだ時、そして気が遠くなりかけた時、急にあたりが明るくなり、ポッカリ水面に出た。助かった!!

近くににあった浮遊物につかまり見廻すと、一面修羅の海である。本船の船長が血まみれになって「畜生!畜生!」と叫んでいた。気がつくと私も左手首から血が噴出し顔面もべっとりしている。やがて近くの海軍駐屯部の内火艇が近づき艇上の下士官が私の軍服姿を見つけ挙手敬礼をすると艇を寄せて私は助け上げられた。鼻のあたりからぽたぽたと血が流れた。艇内で私は驚く程の海水を吐いた。

そのあと、私はいったん船橋のふっ飛んだ本船に戻り、船内の状況を確認する。前甲板にひとりの男児がウィンドラス(ワイヤー巻き上げ機)に右腕を挟まれて動けず必死に泣きわめいている。重いウィンドラスは人力ではどうにもならない。大破した船はやがて沈没するであろう。せっぱつまって乗り合わせた一人の軍人が日本刀を抜くと子供の腕を切り落とした。

その後、私は海軍の仮設病院で応急手当を受け、包帯姿で山陰山陽線を乗り継ぎ、あの被爆直後の広島の焼け跡を通り、郷里に帰る。真夏の太陽が焼けるような暑い日であった。

駅舎さえ骸となりし爆心を復員列車は黙して通る

爛れたる黒き鉄路を復員の列車が通るその日の広島

* * *

子供の頃に話には聞かされていたが、二度目の撃沈の記録がガラス破片とともに出てきた。

(注※)
太平洋戦争時の喪失船舶明細表によると「20/08/14 鹿島丸2,211 栃木汽船 触雷 朝鮮釜山沖」、「20/08/21 栄江丸1,164 朝鮮郵船 触雷 山口小串沖」とある。

(注※)
鹿島丸は、航海中に米機に襲われた時にけなげに応戦するため、臨時で25ミリ機銃を搭載し窮余の策で土嚢などで仮固定したらしい。案の定米機に襲われたので機銃で応戦しようとして数発撃ったら、その反動で機銃がひっくり返ってしまい用をなさなかったという。そういう話を子供の頃父から聞かされた記憶がある。

両腕を骨折した船員についてだが、以前父から聞いた話を合わせると、この二人は見張り籠のへりに両手をついていたために、触雷時の激しい突き上げのために腕が複雑骨折してしまったのだという。そのようなことがあるので危険海域では手をついてはいけないのだそうだ。

(注※)
手記中では栄光丸とあるが、調査の結果正しくは栄江丸(1164トン、朝鮮郵船)であることがわかった。戦没船を記録する会の記録によると、8月21日触雷にて沈没とあり、父の記録と見解が異なる。父は一旦は船橋ごと吹き飛ばされ重症を負いつつも、再び本船に戻り船内の状況を調べた上での見解である。当時、同船に乗っていた通信士の記録(こちら)によると爆発は3度起きたとあるが、爆薬によるのもか気缶の爆発か詳細は不明。。


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